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「会員コラム」開設記念特別号『八坂神社に伝わる蜷川の昔話と蜷川氏』第2章 松尾樹 会長

ご無沙汰をしておりました。

本日は9月19日に新たに開設された「会員コラム」記念特別号『八坂神社に伝わる蜷川の昔話と蜷川氏』第1章(松尾樹会長担当執筆)の続号、第2章を更新いたします。

ぜひ、ご一読ください。

第2章『蜷川親直公について』

①蜷川という姓は

この蜷川親直という方、昔から「蜷川」という姓(名字)ではありませんでした。元々の姓は「宮道(みやじ)」で、「宮道七郎親直」というお名前でした。(蜷川の姓を名乗るまで一時期太田氏を名乗る)

徳川幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』によると、蜷川の地に居を構えて、地名である「蜷川」を名乗り始めたと記してあります。

※ 宮道氏について 先祖に物部守屋を戴き、京都山科を領した豪族。宮道弥益の娘は藤原高藤に嫁ぎ、弥益の孫にあたる藤原胤子は宇多天皇(59第)の女御として、醍醐天皇(60代)の母となる(今昔物語)

この蜷川親直公、旧姓を宮道氏として、越中にやってきたことがわかります。

言い伝えでは、70歳の高齢で没したとなっていますが、いつ頃京都からやってきたのかをお話しを書きます。

②蜷川親直公は何で京都からやってきた?

藤原顕長(ふじわらあきなが)が大治年間(1126~1131年)に越中国の国司に就任(これは遥任)した際に目代として赴任されたと考えます。 宮道季式は康治元年(1142年)に越中国新川郡堀江荘(現在の滑川市)を山城感心院の松室法橋(勧修寺流藤原顕隆の弟)に寄進とあり、さらに昭和54年に滋賀県信楽町の玉桂寺の阿弥陀仏の胎内から発見された、「越中国百万遍勤修人名」には、宮道姓が16名もしるしてあることから、越中国新川郷荘園開拓には宮道弥益(物部氏)を祖とした宮道一族が目代として何人か越中に赴任した。その中に宮道七郎親直公がいたと考えられます。

蜷川親直公は蜷川の地を中心として、土地の開墾、また河川の治水に尽力されます。

③鎌倉幕府と蜷川氏

安元年間~建久年間(1175~1198年、安元→治承→養和→寿永→元暦→文治→建久)の頃、平家の隆盛、安元の頃の国司は平盛俊でその子の越中次郎兵衛盛嗣(平家物語)も赴任。部下の役人も平氏方で占められ、監視は厳重になってくる。(平盛俊も遥任と思われるが、文人、貴族と違い、任地にも身軽にやってくることが出来た。)そのような中、親直公の館も自然城塁化して郎党を武装化させ、治承4年の源頼朝の挙兵に応ずることになった。

文献をみますと、石橋山の戦いの戦功により、(源頼朝は戦いに破れ安房に落ち延び再挙兵する。)蜷川荘、新川・砺波郡を「与えられた」とありますが、以前よりこの地は所領であって、後の鎌倉幕府開府にあたり所領を本領として「安堵された」と考えます。

有名な倶利伽羅峠の戦いでは、越中勢は挙って加勢したが、伊豆にいたのか、何かの理由で挙兵に加わらなかった。次の年、義仲が敗死したが、親直公は文治5年(1185年)に地頭に任ぜられた。源頼朝が幕府を開府したとき、親直公は70歳前後であったので、おそらく嗣子の親綱が賀詞を述べに行ったのだろう。

その後、蜷川親直公は建久8年8月28日に没します。晩年、京都より勧請したのが富山市黒崎に鎮座している「八坂神社」でありました。

この越中国新川郡蜷川荘(富山市蜷川)で発祥した蜷川一族ですが、現代に至るまで歴史上の人物として、各時代に名を残しています。

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