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新「会員コラム」祝 開設記念特別号『八坂神社に伝わる蜷川の昔話と蜷川氏』第1章 松尾樹 会長

この企画は当会会員がいろんな角度から神社のこと、また神道のことなどを紹介、お話していこうという企画です。統一性に欠けること請け合い、でありますが、どうぞご覧下さい。

今月は、本年度会長をおおせつかった松尾樹がお話を書かせていただきます。

どんなことをお話しようかと思いまして悩んでいたところですが、よく地元の方や、歴史研究をされている方から地域の昔のことをよく訪ねられることがあります。このようなことも神職の務めなのかなと思う今日この頃であります。自身郷土史も好きなので(好きなだけであまり詳しくないのですが・・・)『八坂神社に伝わる蜷川の昔話と蜷川氏』と題して、私が住んでいる富山市の蜷川地区にまつわる昔話についてお話をさせて頂きます。

まずは「蜷川」という地域のあらましから。

『蜷川校下のあらまし』

 

蜷川地区は、北は堀川・光陽、東は太田、南は月岡・熊野、西は新保地区に接して、東西に長く、南北に短い地内を神通川に合流する熊野川と土川が流れている。

戦前より農業経営先進地として豊かな水田に恵まれている。また、戦後は住宅地として発展し、国道41号線(飛騨街道)の整備や、昭和50年に北陸自動車道の富山IC開通を機に、商工業も発展しており、大きな変貌をとげてきた。

現在、世帯数 5613世帯 人口13522名(平成25年8月調べ)

 

 

第1章『松尾家に伝わる言伝え』

さて、本題に入ります。

私の奉務する八坂神社(富山市黒崎鎮座)は代々松尾家が奉仕しており、家にこのような言い伝えが残っています。

~先祖は山科の蜷川親直公に従いこの地に来た。公は石橋山の戦い源頼朝の先駆をなし、功により蜷川の荘が与えられ地頭になられた。当時はこの地は芦葦が生い茂っていたので、馬上これを薙ぎ払いながら進入せられた。建久七年四月十五日に祇園社を勧請し、翌年八月二十八日に70歳以上の高齢で没した。~

※  石橋山の戦い(治承4年 1180年~治承・寿永の乱)

※  祇園社(八坂神社のこと。名称他に感心院(かんしんいん)、牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)ともいう)

※  建久年間 西暦1190年から1198年までの期間 後鳥羽天皇82代、土御門天皇83代の御代で、建久三年には源頼朝が天下をとり、鎌倉に幕府をひらく。(幕府開府には諸説ありますが・・・)宗教界は浄土真宗や浄土宗の法然さんの名声が聞こえるころで、親鸞さんはまだ出ていないころでしょうか。臨済宗の栄西が中国より帰国し、禅宗を開かんとしていました。東大寺の金剛力士像が運慶快慶の手によって作られたのが建久3年という年です。

この言い伝えによると、約850年前に私の先祖は蜷川家に従い、京都からやってきたとされています。この蜷川親直公が、現在の蜷川地区を開拓・整備した人となりましょう。

ここで蜷川親直公のことについてお話を書きます。…

と、今日はここまで!続きは次号へと続きます。お楽しみに♪

新「会員コラム」祝 開設記念特別号『八坂神社に伝わる蜷川の昔話と蜷川氏』第1章 松尾樹 会長

八坂神社(富山市黒崎鎮座)『富山県神社誌』より

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