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shinsei-toyama has written 16 posts for おらっちゃとこのお宮さん

小川寺の獅子舞 ― 平安時代から続く神仏混淆のお祭り ―

    3月12日(日)、地域の祭礼をよく知り、祭礼を通して、先人の伝えてこられた伝統・文化を弛むことなく次代へと確実に継承する事を目的として「神社祭礼調査」を実施しました。
    平安時代から続くとされる神仏混淆のお祭りである白山社の春祭は、「小川寺の獅子舞」(小川寺獅子舞保存会)として、県指定無形民俗文化財(平成6年2月24日指定)、「とやまの文化財百選」(平成18年)獅子舞百選の一つとなっています。
    当日は祭典奉仕のご多用の中、髙倉政憲白山社宮司から社頭やお祭りについて講話いただき、明治新政府が推し進めた神仏判然令(神仏分離)の影響を受けずに、神社と寺院が共同で執行する祭礼は全国的にも珍しく、いかにこの社寺が古くから地元の方々に崇め愛されながら息づいていたのかを感じる事が出来ました。
    【場 所】白山社、千光寺観音堂
    【執 行】小川寺獅子舞保存会
    【期 日】火祭り(1月第4日曜日)・春祭(3月12日)・秋祭(10月12日)
    【文化財指定】県指定文化財、無形民俗文化財(平成6年2月24日指定)「とやまの文化財百選」獅子舞百選(平成18年)
    【由来・概要】
    小川寺の獅子舞は、「火祭り」と「春秋の祭礼」に千光寺観音堂で奉納されます。 この獅子舞は、古い様式で神仏混淆の名残があり、神輿が白山社を出て、千手観音堂(千光寺境内)の周りを7度回半巡ります。4度巡ったところで神輿は観音堂の前に据えられ、祝詞が奏上されます。 また神輿の巡幸には、獅子・天狗と、2つの「ばば面」と、1つの「あねま面」が、露払いを行います。ばば面とあねま面は実在した人物といわれ、推定では宝暦年間の人で「森木三右ヱ門」と「十王堂(じょうど)六兵衛」といわれた豪傑と、鬼神の「お松」といわれた女傑だとされています。 獅子は、二人獅子で、地を這うように頭をゆっくり左右に振り、腰をかがめて舞い、天狗は先頭に立って右手右足、左手左足を一緒に出して跳ねるように踊ります(=南蛮踊り)。ばば面の一人は、身体を斜めにして足を引きずり、もう一人は、両手を広げて、四股を踏むような格好をします。あねまは、袂をゆっくり肩まで振りながら、歩きます。
(魚津市観光協会公式HP参照)

白山社

お祓いを受ける奉仕者

天狗と「ばば面」

「あねま面」

千光寺観音堂前での祭事

伏木神社春季例大祭(けんか山祭り)

    今回は、伏木神社(高岡市伏木鎮座)の春季例大祭(通称、けんか山祭り・高岡市無形民俗文化財・とやまの祭り百選)について紹介します。

社殿

鳥居に掲げられた扁額

    ・伏木神社の由緒
    伏木神社は、聖武天皇の御代、天平4年(732)9月に海岸に奇端があったので、神明宮として伊勢の神宮から布師浦(ふしうら)の蔵ヶ浜(ぞうがはま)〈今の万葉埠頭の沖合辺り〉に勧請され、海岸鎮護・住民の守護神として創祀されました。
    万葉の歌人で知られる大伴家持卿が越中国守として在任の頃、当社を崇敬したと伝えられています。
    その後、幾度となく波浪の浸食により鎮座地を遷り、江戸時代の末期、文化10年(1813)9月24日、現在の地(国府別館の跡地)に遷座しました。この時、神幸供奉として伏木曳山が造られ、勇ましい曳山行事となって現在に至り、ますます神賑わいを極めています。近郷11ヶ村の総社として崇敬され、氏子の繁栄につれて神輿の渡御が行われ、そのお供として母衣武者行列(ほろむしゃぎょうれつ)、花傘、行燈などが作られて賑わいました。

神輿

    ・春季例大祭(通称、けんか山祭り・高岡市無形民俗文化財)について

花山車〈はなやま〉全体

花山車〈はなやま〉を見上げる

    伏木はその恵まれた立地から、天平の時代には越中の国府が置かれ、近世以降は港町として繁栄してきました。伏木曳山祭りは、海岸鎮護・海上安全の神である伏木神社の春季祭礼として毎年5月15日に行われます。
    曳山祭りでは、昼には威勢のいい掛け声とともに練り歩く花山車や、神輿の巡行に供奉する子供たちの母衣武者行列が見られ、夜には提灯山車が目もくらむような激しいぶつかり合いを繰り広げます。
    伏木曳山祭り、別名「けんか山」は、華やかさと勇ましさが融合した港町の心意気で満ち溢れており、伝統と心を今に伝える大切なお祭りです。

夜山=提灯山車〈ちょうちんやま〉

山車と山車が全力でぶつかり合う「かっちゃ」

    曳山の創設は、文政3年(1820)に始まると思われます。
    建造に着手した直接の動機は、鎮守の神明宮(現在の伏木神社)が波崩れの災いに遭って、文化10年(1813)に現在地へ遷座した機会に求められます。
    しかし、曳山の福神に、天明元年(1781)の銘があることや、「やま」ができる以前は、祭日に福神を船問屋の座敷に請じ祀ったという伝承が残されていることなどから、計画はもっと早く、安永の頃(1772~80年)にまで遡ることができると思われます。
    当時、伏木浦は、享保年間(1761~35年)に完成をみた加賀藩の港湾制度を受けて、八軒問屋の成立に代表されるように、藩米の回送や北海道に至る北日本沿岸諸港との交易によって、海運・商業活動がひときわ盛んな時期を迎えていて、明和4年(1767)には、渡海船119艘を持つまでに発展していました。
    また、明和・安永の頃は、近隣の放生津や城端などの諸町で、競って曳山を新・改造する気運が盛り上がっていましたから、曳山創設の計画が動き出すのは、むしろ必然ともいうべき状況下にあったのです。さらに、文化・文政(1804~29年)に一時期を画した芸術的な環境も、それに拍車をかけたと思われます。
    伏木の曳山は、このような状況のもとで、「子孫万代」「延寿長生」「宝来招福」等をテーマに、順次完成したものです。

朱と金地の鮮やかな装飾

激しく燃える炎のような夜の山車

福は内、鬼は外! 福は内、鬼も内?

    早いもので、平成28年も3月となりました。 暦の上では春とはいえ、北陸・富山の3月は、まだまだ雪に油断できません。
    さて、2月は、3日「節分祭」・11日「紀元祭」・17日「祈年祭」のお祭りや催し物が各社で行われ、祭り月でもありました。
    ここで、「節分」といえば、疑いもなく「2月3日」という方も多いのではないでしょうか。 一年は立春・立夏・立秋・立冬を節目として四季に分かれ、それぞれの前日が「節分」となります。 つまり、本来、年に四度ある節分が、冬から春へと移る立春前日の節分のみが特に強調されて、現在のかたちになっていったようです。
    また、立春は旧暦では正月節にあたり、新しい年を迎える時なので、節分を「年越し」という地方も多く、民俗学では、一年の境目であるがゆえに福の神も鬼もやってくるとし、この日に追儺や豆撒きが行われると説いています。
    2月3日、県下においても、神主や住職、或いは年男・年女の方々によって、賑やかに豆が撒く様子がテレビや新聞報道で多く見かけました。 豆を撒く際の掛け声というと、「鬼は外、福は内」が一般的ですが、奈良の金峯山寺では「福は内、鬼も内」と唱え、全国から追われてきた鬼を迎え入れるのだといいます。
    豆撒きの他には、氏神のお宮さんへ豆を持って行き自分の年の数をだけを供えたり、イワシを食べてその頭をヒイラギと共に玄関口に挿したり、または豆を焼き、その焼け具合で一年の天候を占う豆占いなど、節分の行事について調べるときりがないほど出てきます。
    ちなみに、私の奉仕する射水神社では、年男・年女、厄年の男女に「福男」・「福女」の役をお務めいただいており、本年も「鬼は外、福は内」と声高らかに唱えながら豆を撒き、一年の開運や健康を祈念しました。

射水神社の節分祭

福男・福女による「豆打ちの儀」

高岡市護国神社秋季例大祭に奉仕して

    今春、国指定史跡に登録された高岡城跡、二の丸・椿山に高岡市護国神社は鎮座されています。
    当社は現在、同じく高岡城跡の本丸に鎮座される射水神社の末社としてお祀りされておりますが、昭和8年、椿山に招魂碑が建立され、同10年12月に高岡市招魂社として竣功いたしました。 その後、昭和26年の高岡産業博覧会の際など、射水神社境内に「志貴野神社」として祀られた時期もありましたが、同27年に高岡市護国神社と改称、同37年には再び椿山に社殿が造営されて今日に至っています。
    また、高岡城跡は「高岡古城公園」として、県民の方々の〝 憩いの場 〟となっている他、「日本さくら名所100選」に選定されており、春には満開の桜花が美しく園内を彩ります。 高岡市護国神社前で咲き誇る桜も見事で、程近い朱色の鮮やかな駐春橋から眺める風景も人気の撮影スポットとなっています。
    さて、高岡市護国神社の春秋の例大祭は、高岡・新湊支部神職合同の奉仕によって厳修されておりますが、大東亜戦争終結70年という極めて意義深い節目の年にあたり、過日10月8日に斎行された祭典では、射水神社の松本正昭宮司はじめ高岡新湊管内の神職に交じり、我々富山県神道青年会より会長、二宮副会長、野上理事が奉仕されました。
    当日、献幣使と随員、慰霊会会長や、多くのご遺族の皆様が参列される中、会長は祭員として前導を務められ、二宮副会長と野上理事は、奉賛会及び当会よりの幣帛が納められた辛櫃を奉舁し、祭員としても奉仕しました。
    例年、富山縣護國神社の大祭に唐櫃奉仕をする私達でありますが、当然、高岡市護国神社での辛櫃奉舁・祭員奉仕は当会として初めてであり、奉仕いただいた会員よりは「大変よい経験となった」や「日頃務めることのない所役で貴重な機会となった」などの感想が寄せられ、会員自身の意識向上につながったように感じます。
    3576柱の御霊をお祀りしている高岡市護国神社には、朝夕のお参りも絶えません。 次世代へ歴史を語り継ぐ使命が我々にはあります。改めて英霊への感謝と追悼の誠を捧げ、その使命を果たすべく、日々の神明奉仕に努める所存です。

(田中天美)

高岡市護国神社

満開の桜

放生津八幡宮の秋季例大祭(築山行事)

 放生津八幡宮は、『万葉集』に「奈呉の江」「奈呉の海人」と詠まれる奈呉の地に「奈呉八幡宮」として創祀されて以来、海の神様として、また戦勝祈願の霊験あらたかな神社として知られる古社である。

当宮の秋季例大祭は、「新湊曳山祭り」の名前でも親しまれ、10月1日に豪華な13本の曳山(花山車)が供奉する神輿渡御、翌2日に築山行事が斎行され、前者の曳山は市指定有形民俗文化財に、後者は古代の素朴な信仰形態を伝える貴重な祭礼として県指定無形民俗文化財となっている。

築山行事は、9月30日の午後5時に海上より「御祖神(みおやのかみ)」を迎えることで始まる。社殿傍らに設けられた祭場には忌火により篝火が焚かれ、舟形の神輿に迎えられた御祖神は境内を巡幸した後、築山へと至り、祭典が執り行なわれる。築山には、多聞天・持国天・増長天・広目天の四天王と、客人(まろうど)が飾られる。

また今日、新湊の街中を曳き回される「曳山」は、固定されて動くことのない「築山」を動くようにしたものであるとも推考されていることから、本祭は両者を理解する上でも恰好の祭礼であるといえよう。

ここで、当宮の秋季例大祭は、「放生会大祭」とも呼ばれ、それは殺生禁断の思想に基づいて生類を放つ仏教儀礼に由来する八幡宮の祭りである。当宮の由緒記によると、天平19年に宇佐八幡神を勧請して以来、連綿と受け継がれてきた祭儀であるとされ、「放生津」の地名もこれに由来するという。

例大祭は、午前9時50分、社務所前にて列立。対揖して参進。奉仕祭員の紹介がなされ、神楽太鼓・修祓・宮司一拝・開扉・献饌・祝詞奏上・献幣・祭詞奏上の後、乙女の舞が奏され、玉串拝礼・撤饌と続くが、引き続き、「放生会神饌」が大前に供進される。故実により御神酒が特大の瓶子で献じられた後、米・麦・粟・黍・豆は大角で、魚は水鉢に、鳥は籠にそれぞれ入れられ供えられる。その後、祝詞奏上、浦安の舞・放生の舞を奏し、玉串拝礼、撤饌と続き、放生の儀で鳥が放たれ、閉扉・宮司一拝・神楽太鼓となり、正午前に斎了となる。水鉢の魚は、斎了後に一員の神職先導のもと、近くの川に放たれる。

本調査では、3名という少数での奉拝となったが、神社の祭礼を学ぶことは、時として各々が奉仕する神社の祭礼と共通点・相違点を明らかにできることもある為、重要であろうと思われた。

さらに社頭で見つけた地元射水市立新湊中学校第3学年による『「曳山祭り」の未来を考える 提案』では、祭礼の問題点の中に「囃子方、曳き手の少子高齢化」とあった。

全てが当てはまるわけではないが、祭礼を維持するためには莫大な費用が必要であり、祭りの継続は非常に困難を極める場合がある。しかしながら、そういう中においても神社と氏子が互いに協力し、様々な祭礼維持のための対策をとりながら今日まで祭りを伝えてきたのである。

〝 祭りはその地域の誇りである 〟

祭りが絶えず執り行われているということは、そこには神社を中心とした地域住民のつながりが息づいているということである。今後、私が神社と関わっていく中では、旧来の神社の在り方が今日の社会に何でも取り入れられるわけではないことも理解した上で、社会の変化に応じて伝統的な文化を受け継ぎながら新たな社会へと関わる方法を模索していきたい。

田中天美

神酒醸造祈願祭(奥田神社)

当神社には、水神様である水波売神(みずはのめのかみ)をお祀りする、末社「さら宮」が鎮座されています。

名前の由来は、「まっさら(真っ新)」になる〝 新しくなる 〟との意味で、氏子崇敬者に親しまれるお宮さんです。

古来より湧水がながれており、甕に水を汲んで奉納し、病気平癒・無病を祈願する方や、斎戒沐浴する人々などがこぞって参拝されたという由緒があります。

この御神徳を広く参拝者にお頒ちしようと、平成24年より富山市八尾町に古くから醸酒を営む「玉旭酒造」とのご縁で、当神社の湧水〝 さらの井 〟 より仕込み水を汲み、全国でも珍しく、また県内では初めて神社の御神水を使ったお酒として、純米吟醸酒「さら宮」を特別に醸造しています。

杜氏の方には「この水はミネラル分が豊富でお酒に適している」というお墨付きをいただき、1月までに御神酒として仕上げるべく、酒蔵で神酒醸造祈願祭を斎行し、醸造の安全とともに「病気平癒・無病」の祈りを捧げました。出来上がった御神酒は、正月の初詣やご祈願、正式参拝などに来られた方々に「お下がり」としてのみ特別にお渡ししております。

「お酒の味は?」と申しますと、その名前の如く〝 さらさら飲め、すっきり辛口 〟のあじわいです。

言うまでもなく、お酒造りにかかすことのできない〝 稲 〟は、神様からいただいた大事な〝 命の根 〟です。この「秋の初穂」と「御神水」からできた「御神酒・さら宮」をお飲みいただき、皆様方が一年間、病気もなく、新しい年を過ごしていただけるよう、ご祈念申し上げます。

二宮 渉

福町神明宮の秋季祭について

先ず簡単な由緒を説明いたしますが、小矢部市西福町に御鎮座まします神明宮は、元亀年間(1570年頃)に旧社内であった東福町に創祀され、地域の民衆によって奉斎されておりました。

しかし、小矢部川の度重なる氾濫により、境内も被害を受けた為に祭祀を続けることが困難となり、天正15年(1587)に現在の場所に御遷座されました。

神仏習合の時代、殆どの神社仏閣では神仏の区別なく祀られ、当社も「超蓮寺」の寺号をもち、山伏が経を唱え人々の信仰を集めておりました。

明治元年(1868)になり、「神仏分離令」が政府より発せられると、神社から仏教は分離され、当社も正式に「神明宮」と称されることとなりました。

正確な御由緒は不明ですが、現在の御社殿は明治14年(1881)に修造、遷座され、現在に至っております。

当社では、毎年10月16日に秋季祭が斎行されます。特別な祭事はありませんが、露店商が数件と、境内の特設舞台では踊りやコンサート、ビンゴ大会、餅まき等の各種催し物が行われ、多くの参拝者で賑わいます。

最近では少なくなった昔ながらの「お宮さんのお祭り」が、まだここには残っているように感じます。

(大峯宜之)

観月祭・月読命について

多久比禮志神社(富山市塩鎮座・林文雄宮司)

昨年、旧暦8月15日中秋の名月にて当神社で、初めて「観月祭」を斎行致しました。

各お社で行われていると思いますが、始めたきっかけは、 「太陽の光を受けて、夜をやさしく照らしてくれるお月様に感謝しよう」というのが発端であります。

もちろんお月様と関係が深い神様は月読命であります。

神話の中でイザナギ命より「天照大御神」「月読命」「須佐之男命」の三貴子がお生まれになり、それぞれ高天原、夜、海原を治めよ、と命じられました。これはみなさんご存知かと思います。

よく聞く名前の神様ではありますが、古事記において月読命はこれ以降現れることはありません。

天照は神明社、須佐之男は八坂神社にお祀りされていることが多く、神社の名前も聞いたことがあると思いますが、月読は月読神社…??

『富山県神社誌』(富山県神社庁編)では、県内2289社(富山303、上新川郡102、中新川郡210、滑川市98、下新川郡117、黒部市62、魚津市97、婦負郡222、高岡市195、新湊市67、射水郡72、氷見市170、砺波市116、東砺波郡201、小矢部市116、西砺波郡105)ありますが、そのうち月読命をお祀りしているのは、富山市月岡新鎮座の「壇山神社」と高岡市太田鎮座の「有磯神社」の2社だけでありました。

我々の生活と月は大変深い関わりがあるのに、三貴子のなかで月読命をお祀りする神社がなぜ少ないのか疑問に感じたこともお祭りを行う一つの理由でもありました。

そもそも、私たちと月にどのような関係があるのでしょうか?

月のはじめを「ついたち」と呼びますが、その語源は「つきたち(月立ち)」の変化と言われています。立つというのは出現、現れると言った意味があり、昔は月の満ち欠けで月日を数えていました。

新月が現れる日がその月の最初になります。そして徐々に月が満ちていき、15日目が満月となり、また欠けていく。新月→上弦の月→満月→下弦の月→新月のサイクル。1ヶ月29.5日周期を繰り返し、月日を刻んでいました。

ですが、これでは29.5×12=354日となり、季節がずれてしまいます。そこで3年に1度、年13ヶ月となる年を設け調整しました。それが閏月です。

昔の行事を今の暦にそのまま直してしまったので季節感がないのはこれが原因となっています。

本来であれば、旧暦にそって物事を進めていけば良いかもしれませんね…

日付だけではなく月の満ち欠けは我々の生活に大変深く関わりあっています。

農業、潮の満ち引きや身体のバランス等々です。

満月の日には出世率が高くなり、出血量も増えるといわれています。血液や体液が月の引力で引っ張られ神経が活性化すると言われています。さらに力が漲り、吸収力が強まるとされています。ですから満月をみて狼に変身するという話もこれらから転じた物だとされています。

人間だけではなく、作物も基本的に満月近くになると栄養を吸い取るので、水や肥料が不足になると言われています。

お祭りは一年に一度ですが、常日頃お月様にも感謝したいと思います。

では当日の祭りの風景をごらん頂いて終わりたいと思います。

観月祭【神事の部】祝詞を奏上する林会員

明かりは幣殿のみ。参列者の方には月の明かりを感じてもらいました。

観月祭【雅楽の部】境内に舞台を作り雅楽演奏

ふるさと、君が代、もののけ姫など

観月祭【雅楽の部】豊栄の舞と地元小学生による浦安の舞を披露

写真は豊栄の舞

(林貞文)

加茂神社の稚児舞(国指定重要無形民俗文化財)

加茂神社(射水市加茂中部鎮座・野上克裕宮司)

今回は、射水市(旧下村)の加茂神社の稚児舞(国指定重要無形民俗文化財)について紹介したいと思います。

毎年9月3日~5日に秋祭りとして斎行されています。秋の実りに感謝する祭りで、五穀豊穣を祈る5月3日~5日の加茂祭(やんさんま祭)と対になる祭りとも言えます。

舞を舞う稚児は、祭りの2週間ほど前に選定式が行われ、氏子の小学生の4・5年生の男子の希望者の中から大稚児2名と小稚児2名が決定します。

選定式から2週間ほどで4名の稚児は賀茂御祖神社(下鴨神社)から伝わったとされる9曲の舞を覚えます。以前は11曲あったそうですが、子供が舞う舞としては難しく、現在では迦陵頻と御幣を持って舞う舞の2曲は舞われなくなりました。

この秋祭りでは古くからの習わしが多く踏襲されていますが、奈良時代から続く化粧方法や、4日の本祭り当日は祭りが終わるまで稚児は一切土を踏まないという故実は特筆すべき点であると言えます。

ではここから9曲の舞について紹介したいと思います。

①「鉾の舞」小稚児2人

この舞は木鉾を持って舞う舞で、悪魔を退治するという意味合いがあります。鉾の振り方は天地人を象ったものだと言われています。9曲中1番長い曲です。

②「林歌」大稚児2人・小稚児2人

舞楽の林歌から作られた舞ですが、曲譜が日本化され、9曲中1番短い曲です。

③「小奈曽利」小稚児2人

舞楽の奈曽利から作られた舞で、可憐な舞の中にも落ち着きがあり、動作は活発かつ柔らかなものとなっています。

④「賀古の舞」大稚児2人

太刀・弓矢を持って力強く舞う舞で、悪霊を退治する舞であると言われています。

⑤「天の舞」大稚児1人

唯一の1人舞で、面を被って舞います。リズミカルで変化に富み、優雅な舞です。

⑥「胡蝶の舞」大稚児2人・小稚児2人

舞楽の胡蝶からできた舞で、9曲中1番有名な舞かもしれません。背中に蝶の羽着け、花園で蝶が舞っているかのような舞です。

⑦「大奈曽利」大稚児2人

小奈曽利に対して大奈曽利と呼ばれています。面・赤熊毛を着けて舞います。活発な動作も面白い舞です。

⑧「蛭子の舞」小稚児2人

えびす神が鯛を釣る動作を模して舞う、神事舞の一種で、「鯛釣り」とも呼ばれています。笛の音により釣りへ勇んで向かう心、ゆっくりと海に近づく動作、釣り上げた喜びが表現されています。

⑨「陪臚」大稚児2人・小稚児2人

舞楽の陪臚から採った曲で、武の舞らしく太刀と楯を持って行う勇壮な舞です。この舞の終わりの際の動作は、戦に勝ち凱旋する姿のようです。

以上が全9曲の説明です。

言葉で表すことはなかなか難しいので、拝観いただけるとご理解いただけるのではないかと思います。

(野上裕樹)

人形供養祭

姉倉比賣神社(富山市呉羽町小竹鎮座 若宮得幸宮司)

以前より、「古くなった人形の処分を何とかしたい」そういった声を氏子崇敬者の皆様から寄せられ、100名を越える参列者のもと、6月30日夏越の大祓に合わせ「人形供養祭」を斎行いたしました。

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