(田中天美)
放生津八幡宮は、『万葉集』に「奈呉の江」「奈呉の海人」と詠まれる奈呉の地に「奈呉八幡宮」として創祀されて以来、海の神様として、また戦勝祈願の霊験あらたかな神社として知られる古社である。
当宮の秋季例大祭は、「新湊曳山祭り」の名前でも親しまれ、10月1日に豪華な13本の曳山(花山車)が供奉する神輿渡御、翌2日に築山行事が斎行され、前者の曳山は市指定有形民俗文化財に、後者は古代の素朴な信仰形態を伝える貴重な祭礼として県指定無形民俗文化財となっている。
築山行事は、9月30日の午後5時に海上より「御祖神(みおやのかみ)」を迎えることで始まる。社殿傍らに設けられた祭場には忌火により篝火が焚かれ、舟形の神輿に迎えられた御祖神は境内を巡幸した後、築山へと至り、祭典が執り行なわれる。築山には、多聞天・持国天・増長天・広目天の四天王と、客人(まろうど)が飾られる。
また今日、新湊の街中を曳き回される「曳山」は、固定されて動くことのない「築山」を動くようにしたものであるとも推考されていることから、本祭は両者を理解する上でも恰好の祭礼であるといえよう。
ここで、当宮の秋季例大祭は、「放生会大祭」とも呼ばれ、それは殺生禁断の思想に基づいて生類を放つ仏教儀礼に由来する八幡宮の祭りである。当宮の由緒記によると、天平19年に宇佐八幡神を勧請して以来、連綿と受け継がれてきた祭儀であるとされ、「放生津」の地名もこれに由来するという。
例大祭は、午前9時50分、社務所前にて列立。対揖して参進。奉仕祭員の紹介がなされ、神楽太鼓・修祓・宮司一拝・開扉・献饌・祝詞奏上・献幣・祭詞奏上の後、乙女の舞が奏され、玉串拝礼・撤饌と続くが、引き続き、「放生会神饌」が大前に供進される。故実により御神酒が特大の瓶子で献じられた後、米・麦・粟・黍・豆は大角で、魚は水鉢に、鳥は籠にそれぞれ入れられ供えられる。その後、祝詞奏上、浦安の舞・放生の舞を奏し、玉串拝礼、撤饌と続き、放生の儀で鳥が放たれ、閉扉・宮司一拝・神楽太鼓となり、正午前に斎了となる。水鉢の魚は、斎了後に一員の神職先導のもと、近くの川に放たれる。
本調査では、3名という少数での奉拝となったが、神社の祭礼を学ぶことは、時として各々が奉仕する神社の祭礼と共通点・相違点を明らかにできることもある為、重要であろうと思われた。
さらに社頭で見つけた地元射水市立新湊中学校第3学年による『「曳山祭り」の未来を考える 提案』では、祭礼の問題点の中に「囃子方、曳き手の少子高齢化」とあった。
全てが当てはまるわけではないが、祭礼を維持するためには莫大な費用が必要であり、祭りの継続は非常に困難を極める場合がある。しかしながら、そういう中においても神社と氏子が互いに協力し、様々な祭礼維持のための対策をとりながら今日まで祭りを伝えてきたのである。
〝 祭りはその地域の誇りである 〟
祭りが絶えず執り行われているということは、そこには神社を中心とした地域住民のつながりが息づいているということである。今後、私が神社と関わっていく中では、旧来の神社の在り方が今日の社会に何でも取り入れられるわけではないことも理解した上で、社会の変化に応じて伝統的な文化を受け継ぎながら新たな社会へと関わる方法を模索していきたい。
田中天美
当神社には、水神様である水波売神(みずはのめのかみ)をお祀りする、末社「さら宮」が鎮座されています。
名前の由来は、「まっさら(真っ新)」になる〝 新しくなる 〟との意味で、氏子崇敬者に親しまれるお宮さんです。
古来より湧水がながれており、甕に水を汲んで奉納し、病気平癒・無病を祈願する方や、斎戒沐浴する人々などがこぞって参拝されたという由緒があります。
この御神徳を広く参拝者にお頒ちしようと、平成24年より富山市八尾町に古くから醸酒を営む「玉旭酒造」とのご縁で、当神社の湧水〝 さらの井 〟 より仕込み水を汲み、全国でも珍しく、また県内では初めて神社の御神水を使ったお酒として、純米吟醸酒「さら宮」を特別に醸造しています。
杜氏の方には「この水はミネラル分が豊富でお酒に適している」というお墨付きをいただき、1月までに御神酒として仕上げるべく、酒蔵で神酒醸造祈願祭を斎行し、醸造の安全とともに「病気平癒・無病」の祈りを捧げました。出来上がった御神酒は、正月の初詣やご祈願、正式参拝などに来られた方々に「お下がり」としてのみ特別にお渡ししております。
「お酒の味は?」と申しますと、その名前の如く〝 さらさら飲め、すっきり辛口 〟のあじわいです。
言うまでもなく、お酒造りにかかすことのできない〝 稲 〟は、神様からいただいた大事な〝 命の根 〟です。この「秋の初穂」と「御神水」からできた「御神酒・さら宮」をお飲みいただき、皆様方が一年間、病気もなく、新しい年を過ごしていただけるよう、ご祈念申し上げます。
二宮 渉
先ず簡単な由緒を説明いたしますが、小矢部市西福町に御鎮座まします神明宮は、元亀年間(1570年頃)に旧社内であった東福町に創祀され、地域の民衆によって奉斎されておりました。
しかし、小矢部川の度重なる氾濫により、境内も被害を受けた為に祭祀を続けることが困難となり、天正15年(1587)に現在の場所に御遷座されました。
神仏習合の時代、殆どの神社仏閣では神仏の区別なく祀られ、当社も「超蓮寺」の寺号をもち、山伏が経を唱え人々の信仰を集めておりました。
明治元年(1868)になり、「神仏分離令」が政府より発せられると、神社から仏教は分離され、当社も正式に「神明宮」と称されることとなりました。
正確な御由緒は不明ですが、現在の御社殿は明治14年(1881)に修造、遷座され、現在に至っております。
当社では、毎年10月16日に秋季祭が斎行されます。特別な祭事はありませんが、露店商が数件と、境内の特設舞台では踊りやコンサート、ビンゴ大会、餅まき等の各種催し物が行われ、多くの参拝者で賑わいます。
最近では少なくなった昔ながらの「お宮さんのお祭り」が、まだここには残っているように感じます。
多久比禮志神社(富山市塩鎮座・林文雄宮司)
昨年、旧暦8月15日中秋の名月にて当神社で、初めて「観月祭」を斎行致しました。
各お社で行われていると思いますが、始めたきっかけは、 「太陽の光を受けて、夜をやさしく照らしてくれるお月様に感謝しよう」というのが発端であります。
もちろんお月様と関係が深い神様は月読命であります。
神話の中でイザナギ命より「天照大御神」「月読命」「須佐之男命」の三貴子がお生まれになり、それぞれ高天原、夜、海原を治めよ、と命じられました。これはみなさんご存知かと思います。
よく聞く名前の神様ではありますが、古事記において月読命はこれ以降現れることはありません。
天照は神明社、須佐之男は八坂神社にお祀りされていることが多く、神社の名前も聞いたことがあると思いますが、月読は月読神社…??
『富山県神社誌』(富山県神社庁編)では、県内2289社(富山303、上新川郡102、中新川郡210、滑川市98、下新川郡117、黒部市62、魚津市97、婦負郡222、高岡市195、新湊市67、射水郡72、氷見市170、砺波市116、東砺波郡201、小矢部市116、西砺波郡105)ありますが、そのうち月読命をお祀りしているのは、富山市月岡新鎮座の「壇山神社」と高岡市太田鎮座の「有磯神社」の2社だけでありました。
我々の生活と月は大変深い関わりがあるのに、三貴子のなかで月読命をお祀りする神社がなぜ少ないのか疑問に感じたこともお祭りを行う一つの理由でもありました。
そもそも、私たちと月にどのような関係があるのでしょうか?
月のはじめを「ついたち」と呼びますが、その語源は「つきたち(月立ち)」の変化と言われています。立つというのは出現、現れると言った意味があり、昔は月の満ち欠けで月日を数えていました。
新月が現れる日がその月の最初になります。そして徐々に月が満ちていき、15日目が満月となり、また欠けていく。新月→上弦の月→満月→下弦の月→新月のサイクル。1ヶ月29.5日周期を繰り返し、月日を刻んでいました。
ですが、これでは29.5×12=354日となり、季節がずれてしまいます。そこで3年に1度、年13ヶ月となる年を設け調整しました。それが閏月です。
昔の行事を今の暦にそのまま直してしまったので季節感がないのはこれが原因となっています。
本来であれば、旧暦にそって物事を進めていけば良いかもしれませんね…
日付だけではなく月の満ち欠けは我々の生活に大変深く関わりあっています。
農業、潮の満ち引きや身体のバランス等々です。
満月の日には出世率が高くなり、出血量も増えるといわれています。血液や体液が月の引力で引っ張られ神経が活性化すると言われています。さらに力が漲り、吸収力が強まるとされています。ですから満月をみて狼に変身するという話もこれらから転じた物だとされています。
人間だけではなく、作物も基本的に満月近くになると栄養を吸い取るので、水や肥料が不足になると言われています。
お祭りは一年に一度ですが、常日頃お月様にも感謝したいと思います。
では当日の祭りの風景をごらん頂いて終わりたいと思います。
観月祭【神事の部】祝詞を奏上する林会員
明かりは幣殿のみ。参列者の方には月の明かりを感じてもらいました。
観月祭【雅楽の部】境内に舞台を作り雅楽演奏
ふるさと、君が代、もののけ姫など
観月祭【雅楽の部】豊栄の舞と地元小学生による浦安の舞を披露
写真は豊栄の舞
(林貞文)加茂神社(射水市加茂中部鎮座・野上克裕宮司)
今回は、射水市(旧下村)の加茂神社の稚児舞(国指定重要無形民俗文化財)について紹介したいと思います。
毎年9月3日~5日に秋祭りとして斎行されています。秋の実りに感謝する祭りで、五穀豊穣を祈る5月3日~5日の加茂祭(やんさんま祭)と対になる祭りとも言えます。
舞を舞う稚児は、祭りの2週間ほど前に選定式が行われ、氏子の小学生の4・5年生の男子の希望者の中から大稚児2名と小稚児2名が決定します。
選定式から2週間ほどで4名の稚児は賀茂御祖神社(下鴨神社)から伝わったとされる9曲の舞を覚えます。以前は11曲あったそうですが、子供が舞う舞としては難しく、現在では迦陵頻と御幣を持って舞う舞の2曲は舞われなくなりました。
この秋祭りでは古くからの習わしが多く踏襲されていますが、奈良時代から続く化粧方法や、4日の本祭り当日は祭りが終わるまで稚児は一切土を踏まないという故実は特筆すべき点であると言えます。
ではここから9曲の舞について紹介したいと思います。
①「鉾の舞」小稚児2人
この舞は木鉾を持って舞う舞で、悪魔を退治するという意味合いがあります。鉾の振り方は天地人を象ったものだと言われています。9曲中1番長い曲です。
②「林歌」大稚児2人・小稚児2人
舞楽の林歌から作られた舞ですが、曲譜が日本化され、9曲中1番短い曲です。
③「小奈曽利」小稚児2人
舞楽の奈曽利から作られた舞で、可憐な舞の中にも落ち着きがあり、動作は活発かつ柔らかなものとなっています。
④「賀古の舞」大稚児2人
太刀・弓矢を持って力強く舞う舞で、悪霊を退治する舞であると言われています。
⑤「天の舞」大稚児1人
唯一の1人舞で、面を被って舞います。リズミカルで変化に富み、優雅な舞です。
⑥「胡蝶の舞」大稚児2人・小稚児2人
舞楽の胡蝶からできた舞で、9曲中1番有名な舞かもしれません。背中に蝶の羽着け、花園で蝶が舞っているかのような舞です。
⑦「大奈曽利」大稚児2人
小奈曽利に対して大奈曽利と呼ばれています。面・赤熊毛を着けて舞います。活発な動作も面白い舞です。
⑧「蛭子の舞」小稚児2人
えびす神が鯛を釣る動作を模して舞う、神事舞の一種で、「鯛釣り」とも呼ばれています。笛の音により釣りへ勇んで向かう心、ゆっくりと海に近づく動作、釣り上げた喜びが表現されています。
⑨「陪臚」大稚児2人・小稚児2人
舞楽の陪臚から採った曲で、武の舞らしく太刀と楯を持って行う勇壮な舞です。この舞の終わりの際の動作は、戦に勝ち凱旋する姿のようです。
以上が全9曲の説明です。
言葉で表すことはなかなか難しいので、拝観いただけるとご理解いただけるのではないかと思います。
(野上裕樹)