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「会員コラム」開設記念特別号『八坂神社に伝わる蜷川の昔話と蜷川氏』第3章(最終章)松尾樹 会長

第3章『その後の蜷川氏』   ①越中国新川郡蜷川荘より興った蜷川氏の子孫たち

・二代親綱は一族の菩提寺として最勝寺(富山市蜷川、現在の寺は蜷川氏の居宅跡)を建立した(建久9年 1198年)。その後、三代、四代、五代は蜷川家の記録には名のみ伝わって事蹟が詳しく書かれていない。既に宮道氏伝来の丹波に移り六代親朝の頃に足利氏に仕えて栄える基盤が早くからその地で出来上がっていたのか?

・蜷川親朝は足利尊氏に仕えて丹波に蜷川城を構え一族が足利氏及びその重臣伊勢氏との婚姻関係を結び深く幕府内に勢力を扶植した。蜷川氏は足利時代の初め、三家系に別れた。

・蜷川親朝の子親章は越中を受け継ぎ、越中に城を構え、宮道氏以来の地、すなわち新川郡では蜷川荘のほか太田荘、布施(魚津)、堀江荘(滑川)、砺波郡では蓮沼、石動の掌握に努めた。

・蜷川親章の兄弟の親俊はこれも宮道氏以来の地、丹波を継承し蟠根寺を建てて祖先を祀り、蜷川城を護持し貞繁へ引き渡した。以来丹波はこの子孫の栄えるところとなり、六代後の蜷川貞房が明智光秀に味方して天王山、山崎の戦いに敗れるまで居城する。

・蜷川貞繁の弟、親当は才知人に優れ、室町幕府の政所代という役職につき、何代も世襲し一族繁栄の中心とした。ちなみに蜷川親当は通称を新右衛門といい、テレビアニメ一休さんで登場する「しんえもんさ~ん」こと、蜷川新右衛門のモデルが「蜷川新右衛門尉親当」になる。実際、一休禅師との交友があり、このことがモデルとなった。また、文学史上でも連歌「智蘊(ちうん)」の俳号で名高い。

その後の蜷川氏は、当方まだまだ勉強不足で、今後調べていきたいと思っておりますが、あらあらではありますが、衰退から江戸幕府までを書きます。

永禄の変(えいろくのへん)は、永禄8年5月19日(1565年6月17日)、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀らの軍勢によって室町幕府第13代将軍・足利義輝が京都・二条御所に襲撃され、討死した事件であるが、この事件のような幕府衰退と共に蜷川家も衰退。親章(越中蜷川城)の子孫である常嗣は翌9年(1566年)神保氏との戦いで討死し、370年続いた越中蜷川城も敵の手に落ちることになります。

各流の蜷川氏は出羽に逃れた者、土佐にながれた者、福井松平藩に仕官した者等蜷川氏は辛酸をなめた。

江戸幕府開府にあたって徳川将軍に見出され、各流仕官し幕末に至っては、加増を重ね旗本5千石となった。

  ②歴史上に見える蜷川氏

歴史上の著名な人物が宮道・蜷川氏の血筋をひく方々であった。

・宮道弥益の孫(胤子) 第60代醍醐天皇の母(胤子)→宮道弥益の娘と藤原高籐との子

・春日局 徳川三代将軍家光の乳母 斎藤利三の母は蜷川親順の娘。

・本能寺の変に続く山崎の戦いでは、明智光秀に属し秀吉軍と戦い討死した。

・蜷川親熙(ちかひろ)江戸幕府旗本 奥右筆職を世襲 徳川幕府綱吉の時代。

・蜷川 新(あらた)法学者 赤十字設立に尽力。

・蜷川親博(ちかひろ)軍医中尉 海軍甲事件(山本五十六大将がブーゲンビルで撃墜)で当時山本長官を検死した。

・武蔵(本名 森昭生)格闘家 蜷川新のひ孫、蜷川親当の子孫。(NHK番組「ファミリーヒストリー」 武蔵(格闘家)〜800年前に遡る武士の家・激動の歴史〜ご参照。)

  長々とお付き合いいただき有難うございました。続きはまた別の機会にでも。

  資 料

「富山県史 通史編Ⅱ 中世」

「富山市史 通史(下巻)」

「蜷川乃郷土史」 蜷川校下史編纂委員会

「肯構泉達録」 KNB興産出版事業部

「越中志徴」 富山新聞社

「鎮守の鳩」 八坂神社社報 27代 宮司 松尾直慶編集

「蜷川・宮道氏一千二百年史略」 蜷川親秀著

「山本五十六の最期―検死官カルテに見る戦死の周辺」蜷川親正著

「蜷川家古文書」 東京大学史料編纂所

「松尾家文書」 松尾家所蔵

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